ベトナムは1992年、ユネスコ世界遺産条約に加盟しました。1993年にはベトナム最初の世界遺産として、フエ旧市街全域が登録されました(フエの建造物群:世界文化遺産第678号)。それから17年を経て、ベトナム7番目の世界遺産が誕生しました。首都ハノイにあるタンロン城遺跡がそれ。ハノイ首都圏内での登録は初めてとなります。

VIETJOから引用:
 ブラジルの首都ブラジリアで開かれたユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会は7月31日(現地時間)、ハノイ市バーディン区のタンロン遺跡(タンロン城王宮跡)を世界文化遺産として登録することを決めた。

 タンロン(昇竜)城は、1010年に当時の李朝大越国の王宮として創始されました。9代200年以上に及ぶ支配の後、陳朝、胡朝などといった古代大越王朝歴代の居城として使われました。しかし1802年、西山朝2代皇帝阮光纉が滅ぼされ、最後の王朝となる阮(グエン)朝越南(ベトナム)王国が首都をフエに定めたことで、タンロンは800年におよぶ栄華の幕を閉じました。

 その後、仏領インドシナ時代にフランス軍の兵営を建設するとして城は取り壊されてしまいます。民主共和国(北ベトナム)の誕生とともにハノイは再びベトナムの首都になりますが、タンロン城のあったところには国会議事堂(バーディン大会堂)が置かれ、タンロン遺跡はアンコールワット(カンボジア)やワットプー(ラオス)のごとく永い眠りについていきました。

 しかし、社会主義共和国時代になった2002年、国防省は移転。バーディン大会堂を隣接地に移転新築する計画が起こり、基礎工事を始めたところ、李朝以前のものも含む巨大な遺跡が出土したのでした。西山朝が滅んでから、ちょうど200年目のことでした。

朝日新聞から引用:
 ハノイの新国会議事堂建設予定地で見つかった遺跡が、7世紀ごろから19世紀までの王城の跡を重層的に残す壮大なものであることが明らかになってきた。最も古い遺構は中国支配時代のもので、遣唐使から唐の官僚になった阿倍仲麻呂が長官を務めた安南都護府である可能性も高い。中国の長安や奈良の平城京に匹敵するとの指摘もあり、「世界遺産級」と評価する声もあがっている。

 議事堂建設計画は中止になり、発掘作業が進められていきます。その結果、取り壊されてしまった建物本体に取り付けられていた装飾品や、本体に使われていたとみられる煉瓦やタイル、構内で王族が食事を取るのに使っていたであろう陶磁器などが次々と出土してきました。

朝日新聞から引用:
 発掘地には各年代の数十の建物跡が重なっている。8世紀前後にさかのぼる木柱や唐の様式のれんが、これまで位置が確定していなかった11世紀以降の昇龍(タンロン)城を示すハス形の柱の基礎などが見つかった。柱の間隔などから、最大の建物は数千平方メートルの広さがあったとされる。

 それら出土品の中には、1010年に李朝がタンロンを首都と定める以前、ベトナム北部が歴代中華王朝の支配下にあった時代(北属期)のものも含まれているという分析結果が出て、ベトナム考古学史上世紀の大発見となったのでした。

朝日新聞から引用:
 遺跡は1メートルから4メートルの深さにあり、深い方から
(1)7~9世紀の中国支配時代
(2)ベトナムが独立を果たした10世紀の丁朝や11世紀から14世紀の長期政権、李朝、陳朝
(3)国家の整備が進んだ15世紀の黎朝から阮朝が19世紀にフエに都を移すまで、に分かれる。

 そして、ファン・ヴァン・カイ前首相率いる当時のベトナム共産党指導部は、タンロン遺跡を公園として整備する方針を決定。世界遺産登録へ向けて準備を始めました。

日本ベトナム友好協会大阪府連合会のHPから引用:
 最終的に国会議事堂は現在地での建て替えに変更され、「ホアンジエウ通り18番地遺跡」の大部分と、端門-敬天殿-北門の「中心軸地区」をあわせて、「タンロン皇城遺跡」として遺跡公園化のうえ保存することが決定しました。

 7月31日、今年の新規登録案件を決めるユネスコ世界遺産委員会の年次会合はタンロン遺跡を東南アジアにおける王朝文化の象徴として、既に登録されているフエやワットプーと並ぶ世界文化遺産として登録すべきとし、満場一致で決定しました。

共同通信から引用:
 同委員会は「(遺跡は)東南アジアの一つの文化的な起源を示す」と登録理由を述べた。

 タンロン遺跡はハノイ建都1000年の記念すべき年に、世界文化遺産第1328号となりました。ハノイ市人民委員会では、登録を祝う行事をこれから順次実施していくとのことです。

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